昭和49年03月26日 朝の御理解



 御理解 第92節
 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違う所はない。あそこではおかげを受けたけれど、此処ではおかげが受けられぬと云うのは、守り守りの力によって神の比礼が違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いに係わるぞ。」

 此処では、朝の御神飯が遅くとも三時ぐらい迄にはお供えがされます。今朝も私は二時ちょっと過ぎに起きて、食堂へ参りましたら、灯りが点いておって、そしたら、上野先生が御神飯の用意をしておった。「今日はえらい早いね」と言ったら、「はい今日は少し早いですけれども」と言うてから、準備が出来ておりましたが、兎に角御神飯を炊かせて頂く、まあ是は心得、心掛けとしてです。
 例えば上野先生が思うておる事、また行のうておる事は、出来たてのまあだ良くおみあっておらんごたるとば、御神飯器についで、そしてもう時間に遅れるけんと言うて、慌て回ってお供えする様な事では相済まん。本当にほっこらと炊いた、おむれたと言いますか、そしてそれをゆっくり丁寧に御神飯盛らして頂いて、勿論、私が四時の御祈念に出ますから、それ前に言うならば召し上がっといて頂かなければならんと云う様な心掛けで御神飯を炊くと申します。まず私は教会の朝はその御神飯から始まると思うですね。
 早いと教会の機能と云うかねが、例えばそう云う早い遅いで、言うならば信者のお参りが早い遅いに関わると云う事は、是はお参りと云うだけの事ではありません。一事が万事に、言うならそこの先生の信心如何による事だと云う事です「うちの信者はどうも行き届かん」と言うならそこの先生が行き届きなさらん証拠だと云う事なんです。子供を見れば親の姿が判る様に、信者の様子を見ればやはり先生の様子も判る様なものだ。まあ例えば四時の御祈念を終わって、なら五時の御祈念。
 若先生が御祈念の時には、もう御広前一杯皆さんが、それこそ時間に遅うならしちゃならんと、もう一生懸命でお参りして見えると云うのも、やはり私は私の知っている限りの教会ではないですね。もう五時の御祈念に先生が御祈念例えばなさっても何人か参っとりゃ良か方で、まあ御祈念の済む頃にばらばらと参ってくると云う様なのが、私の知っておる限りの教会ではそうでした。もう五時の御祈念と云う時に、御広前一杯に信者が集まっとると云うのは、私はまだ此処以外には知りません。
 そう云う事もやはり、今日の最後の所にある「信者のお参りの早い遅いに関わるぞ」と云う様な事はそんな事だと思う。先生が寝放題の言わば、先生の所では、やっぱり信者も寝放題的な信者しか生まれて来ないと云う事なんです。今日は私は、此処に言うておられる「守り守りの力で神の比礼が違うのぞ」と仰る所辺りを、まあ手前味噌になるかも知れませんけれども、聞いて頂きたいと思うんです。
 昨日、婦人部会の引き続いて、信心研修会が、何時もの様に御座いました。その研修会の最後に、文男先生が、こんな事を話しておりました。どこかヨーロッパの方でしょう。もう四百何十年前位、まあ、ですから、日本の室町時代ですかね。大変な的確な予言者があったと云う人の、本を読ませて頂いたと言うて、話しておりました。それがもう九十九パーセント合ってるそうです。
 例えばあのう、日本と云う国に大東亜戦争の終末ですね、最後にあの原爆が堕ちて、やられると言った様な事やら、もちゃんと予言してあった。まあそんな例を、ずっと話しながら、その事を話しておりましたが。二十五年後には、もう地球上の人類が死滅すると言う。お釈迦様とか、キリストあたりの教典なんかから見ると、まあ仏法では末世の世がもう来てると言った様な事を、何と言うですかねえ、あの日蓮宗なんかでは、特にそれを言ってるそうです。キリスト教でもキリストは予言しております。
 その言わば地球破滅人類の破滅を予言しておりますけども、信心をしておる者だけは、助かると云う風に説いてあるそうですね。教祖様もやはり「火の雨の降る事がある」とか、「今の世は知恵の世、開けた開けたというけれども、開けたのではなし、めげたのじゃ」と言う風に仰っておられる。だからだんだんめげて行く。人間の知恵が出来れば出来る程、世の中と云う物はめげて行くのだと。それこそ肌に粟粒の様な物を、感じる思いが致します。二十五年後にそれが、しかもほとんど百パーセント。
 百発百中予言が当たっておると云う人の、言を借りると二十五年後にはもうしまえる。日本だけじゃない、世界・地球が破滅するんだと言う訳です。それから終わりましてから、私がそこで丁度もう四時半位でしたから、ちょっとお礼をさせてもらった。その文男さんが言った話が、なんかえらい気に掛かるんですね。それで神様にその事をお願いさせて頂いたらね、『自分で自分の首を絞めるのじゃ』と神様が仰った。
 そう云う事もなら、嘘じゃ無いかもしれん。けれどもそれは人間は自分で自分の首を絞めている。「自縄自縛」と言った様な事を申しますね。自分で自分を括ってしまって、いわゆる苦しむのだと云う訳なんです。そこで私は本当にその有難いなあ、金光様の御信心を頂いておって、愈々自分で自分の首を括る様な在り方から、一歩前進して本当な信心になっとかなければいけないなと思います。
 なら本当の信心と云う事はね、もう自由自在なんです。自分の心が言うなら、なら自由自在のおかげをもうただ頂けるのかと言うと、自由自在の自分の心を和賀心に、言うならば有難い喜びの心感謝の心にころころと、自分の心を喜びに変えて行く道を教祖は説いておられる。もうその事だけをなら合楽では説いておるのですから、少しはぎこちないけれどもです。段々稽古して行く内にそこん所が有難い方へ有難い方へと、有難い心を使うて行く事が出来る。
 だから、信心しておってもです。ただ言うならおかげ信心から一歩も出なかったら、是はもう二十五年後にはやられると思わにゃいけんです。けれどもです。ならキリストが言われたと言う、信心のある者はと言うなら、今合楽で私が言うておる様な信心を、本気で身に付けようと精進する者だけは生き残る。是は私が予言する訳です。私は昨日神様から頂いたお知らせから言うとです。そうなるんです。だから自分で自分の首を括る様なと云う事は、例は沢山ありましょう。
 けれども信心させて頂く者の例を取りましょう。どう云う事になるかと言うと、こう云う事を言う人があります。「もうおかげを頂き過ぎてましてから、親先生もう忙しゅうて忙しゅうてお参りする暇も御座いません」と言う。だからいかにそのおかげで首を絞められておるかと云う事が判るでしょうが。おかげを頂くから却ってお参りが出来んと言う様なだから信心ではいけないと云う事です。
 信心させて頂いておかげを受けると云う事は、言うならば人間の力に見切りを付けて、いわゆる人力に見切りを付けて神力に縋る所から、人力は自ずから湧いて来ると云うのですから。例えばなら此処で一番手っ取り早い例を言うと、高橋さんです。九州中に言うなら十軒からの店を持っておられる。従業員が百名から、もう超したでしょう。職人さんとか女中さんなんか合わせますと、それで何時も自分は合楽の教会に、まあ言うならば浸っておられるじゃない。
 例えばなら昨日は昨日でも、朝はもう私が出る時にはお参りしておられる。もし時間に少しでも遅れたら、その日は断食すると云う様な、自分に対する厳しさ、厳しさを以て自分に当たっておられる。さあ、昨日一日御用を頂いて、ちょっと家に帰られて、そしてもう研修会にはまた出て来ておられる。だから、「三福」の大将に用があるなら、もう合楽に電話かけた方が、早かと云う位いにして、言うならば、おかげを受けておる。それはまだ完璧と云う訳ではありませんよ。
 まだその十もの幾つものお店にもいろんな問題があります。だから飛んで行かにゃん時もありますけれどもです。言うなら合楽の教会なら、合楽の教会本店なら本店に方におっておって、ならその十の店の機能が一つも支障を来さない。信心と云う真心と言う、御神意に添うて行こうと云う、そのボタンを一つ押せば末梢神経に至るまで、ピシッとおかげが頂けていけれると云う様に、段々なって行くでしょう。とてもあぁた忙しゅうて今日は宮崎、明日は何処、明日は長崎と回らんならんから。
 「とてもこの頃は、合楽にはお参りする暇が御座いません」とは言うちゃあない。言わん訳です。ところがならなるほどおかげを頂きよる。また確かにおかげを頂いておる。「とても忙しゅうして忙しゅうしてお参りしようと思うけども、なかなか十分にお参りが出来ません」とこう言う。おかげでいわゆる自分で自分の首を括って行く様なおかげでは、だからつまらんと云う事ですよ。だから自分で自分の首を括ると云う例話はまあだそれ以下に沢山ありましょう。
 是は信心させて頂いておったっちゃ自分で自分の首を括る様なおかげしか頂き切っとらん程度の者はもう二十五年後にはおしまいだと、まず思うて間違いないです。その予言者の言っておる事が、本当に百発百中当たるとするならばですよ。キリストが言われる様にただし言うなら、キリストの信心とは言われるけれど、私は真の信心だと思うです。真の信心をする者だけは地球上に生き残るんだと、なら金光様の御信心は真の信心だから、金光様の信者は皆生残るかと言うとそうはいかん。信心頂いておっても。
 昨日私がお知らせ頂いた所によると、自分で自分の首を括って行く様な生き方の人は、もう括って行くより仕方がない。だからおかげ頂いとったじゃだめ。信心を頂いとかなければ。是は昨日一寸、もたもたしておりましたけれども、昨日はっきりと答えが出た訳ですけれども、そこの安東さんがお礼お届けしてきた。先日からもお話ししとりました様に、丁度此処の霊祭の前の日であった。
 家を今追い立てられておられますから、もうあっちこっちそれこそあっちに家があると言えばそこへ行き、こっちに家があると言えばそこの方へ行って探しておられるけれどもない。それで二十三日の霊祭ですから二十二日の日に、吉井に一軒あると云うので行かれた。そりゃ立派な鉄筋コンクリートの家じゃった。所が大家さんが判からんけれどもあの家には幽霊が出ると云う事であった。だから何人かの人が借ったのだけれどもノイローゼの様になってから、もう済み付く人が無くなっておると云う家であった。
 そのちょっともたもたしてましたけれども、愈々他に家がありませんから、またそれを尋ね求めして大家さんが熊本県の、何て言うか灯篭で有名な山鹿ですかね。山鹿におられると云う事で、山鹿まで行かれた。そして本人に会われた所が、その人が一番口に言われた。「あそこには本当に幽霊が出るがいいですか」と言わっしゃった。その大家さんがそれで安東さんが言うておられる事です。「私はそげんとが好いとります」と言わっしゃった。「家賃な八千百円」
 「いえいえもう私は、一万円出したっちゃ良う御座います」と言わしゃったそうです。私はここらへんが、一寸余談ですけれどもね、「私は過ぎたるは及ばざるが如し」と云う所を、是は安東さんの、全ての上に何時も感ずる事なんですけれどもね、こげな事は言うちゃならんですよね。こげな事例えば「幽霊の出る家が好いとります」てんなんて、そんな事がいくもんか。「私はおかげで信心を頂いておりますから、金光様の御信心を頂いておりますから、例えそうであってもおかげを頂いて行きます。
 と言うふうに言やあ良かです。「私はそげんとが好いとります」なんてん。私はその時言おうかと思ったばってんが、まあぼちぼち後から言おうと思てからね、例えばそうです。向こうが八千百円ちゅうだと、「ああそうですか」と、ほんなこつならもちっとこぎってたっちゃよかでしょう。「五千円にして下さい。あなたもう誰も住む人が無かとじゃけん」と言やあ、「ならもう五千円でよう御座います」と言わっしゃるかもしれん。それを「はあ良う御座います。一万円で良う御座います。」
 馬鹿んごたる事ばっかり言うて、こげんとが過ぎたるはね及ばざるが如しと言うのです。それが一事が万事にそう云う様な物が生活の上に現われて来るです。だから難儀するです。何故かというと、「幽霊の出るのが好いとります」と言う事はね、例えばどう云う事かと言うと、「難儀ば好いとります」と言うとじゃけん、神様が難儀ばっかり与えて下さる訳です。そんなこっじゃない。そりゃあね、降ってまたは湧いて来る様な難儀があります。いろんな問題があります。その時には辞せてはならん。
 辞してはならん。もうそれこそ日頃の信心に物言わせて、それを有難いで合掌して受けて行かなければならん。元気な心で受けて行かねばならんばってん。こっちが幽霊出るとが好いとりますと言うごたる事では幽霊が出る。はあ喜ばっしゃるけんちゅうて出て来るならどうするですか。お金であれば借金、言うなら一杯借金持っておられる安東さんが「はあ良う御座います一万円で」と言うた。向こうは八千円でと言うよるとじゃから「はあそうですか。出来るだけまけて下さい。」
 大体あんまり、言うなら毎月五千円づつでん入んなら向こうは喜ばっしゃるとじゃから、そげん時こぎったっちゃいいです。それを「はあ、良う御座います。一万円で良御座います」ほんにあんた馬鹿んごたる事ばっかり言うなっち、よっぽど言いたかったけれどもああそうですか。と言う訳なんです。私がその家ば借る時にその時は私が泊りに行ってやるちゅうたもんじゃけん、もう安心しちゃある訳です。
 昨夜私は晩うに出て来てから、その事を神様に改めてお願いさせて頂いた。お願いさせて頂いたらね、あの既製品の洋服を売っておる所では、既製品の洋服を首吊りと言うでしょう。『その洋服を首吊りの洋服を洋服ダンスの中に一杯入っとった。それけんその洋服をこうやって押しやって、そこに押し込む様にして、その首吊りの洋服を洋服掛けに掛けて、そしてそのピシャッとこう洋服ダンスを閉めた』所を頂いたです。
 私は今日皆さんに聞いて頂きたい事は、少し手前味噌になりますけれども、是はもう合楽でなからなければでけんと言う話をみんな致しました。おそらく今時に幽霊の出るちゅうとば、そればならそのピシャッと治める所に治め切る人やら先生やらは、バサラかおらんと思うです。是はね首吊りを言うならば、迷うておる御霊をですね治める所に治めると言う意味なんです。おそらく首吊りかなんかで死んだんでしょうねだから。
 そしてそれが宙に迷うておるのを、なら私の信心によって、勿論金光様のお徳にお縋りして、私がそれを取次がせて頂いて、洋服ダンスの中に言うならば、そう云う程度の御霊はそう云う程度の御霊だけが行かんならん世界があるのだ。だからそこに治める事が出来たという。神様はお知らせ下さったです。しかも入り切らん所をこうやって手で押しやってから入れると云う事は、是は絶対力がなければ出来るこっじゃないです。
 例えば就職なんかを顔の広い人とか力のある人に言うと、そこに押し込んででん入れてやりなさるでしょうが。「もう中はいらん」と言うたっちゃ「そんなこつ言わずに、是だけ雇え」と言うたら、「そんなら、あなたが言いなさるけんしょうない」と言って入れる。そう云うもんです。守り守りの力でしょうが。だから皆さんはね、そういう御広前で信心の稽古をしておんなさる訳です。
 そしてなら私が言う事はです。二十五年後にそれはどう云う事になるか分からんけれども、そん時には生き残れる程しの信心を身に付けて置きなさいと、私は日々言いよるとです。ただおかげおかげに終始する信心ではです。いくら金光様の信心頂いとると言うても、合楽に御神縁頂いとると云うてもそれはまず、その予言者の言う事が百発百中当たるとするならば、もうその中に入ってしまわなければならん。けれども私が今申します様な、自分で自分の首を括る様な信心は改めなければいけないと云う事です。
 それはどう云う事かと言うと、おかげに終始した、おかげに終始しますともう絶対自分で自分の首を括る。いわゆる、自縄自縛的な事になりかねません。いやなります。もう兎に角お礼参りすりゃあよかと云う位になって来るです。そうではない。本当に例えば高橋さんの例で申しました様に、忙しなれば忙し成程、店が拡張されれば拡張される程です。いよいよ信心にならなければおられないのです。
 一寸時間があるなら、十分でも三時半の私の出る時間に例えば間に合わなかったら、その日は断食でもすると云う位に、自分に厳しくして真の信心を身に付けて行こうとする様なです。しかもね、そう云う信心が有難うなり、楽しゅうなる様な信心をです。本気で一つ身に付けて行かなければいけないです。私は今日の此の九十二節を頂いてです。改めて、守り守りの力と、此処には仰っておられたり何処と別に、金光様に違いはないけれども、守り守りの力で、神の比礼が違うのぞと言う事をです。
 今日は二、三の例を以て申しました様な事で、聞いて頂きました。ならそう云う例えば、力のある教会と言うと、誤幣がありますけれども、力無かってもです。そう云う、言うならば、信心をです。今日私が申しました様な信心をどうぞ皆さん、身に付けて行って下さいよと言うて、私がこうして、一生懸命皆さんに聞いて頂いておるのです。昨日文男先生が言ってました。
 「二十五年後には、そう云う事になるのだから、こりゃあどうでもこうでも、合楽で今言われておる所の和賀心時代を創ると言う信心がです。二十五年、言うならば、前に世界に徹底する様なおかげを頂かなきゃあならん」と言うて、最後を結びました。だから本当に私が言うておる和賀心時代を創ると云う、先ずは自分自身の心の中に、和賀心を願い求めての信心、そしてそれをです。
 もう本当に間に合わん。だからその世の終末が二十五年後なら、それ前に新しく又、和賀心と云う時代で新たな、言うならば地球上に生き生きとした和賀心時代という信心の世界がです。開けて来る様なおかげを頂くために、是はもう合楽に御神縁を頂いておる人達は、兎に角そう云う意味においてでもです。私は責任を感ずる位な大きな信心を目指さなければいけないと思うですね。
   どうぞ。